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2021.05.16

コロナワクチンと知的財産

コロナウイルスへの対応は、世界的に変異株が拡大する中、ワクチン接種をどれだけ加速できるかという「時間との戦い」の様相を呈しています。そんな中で、5月5日付けでアメリカ通商代表部(USTR)が、コロナ関連の知的財産について権利主張の放棄を求めた、インドと南アフリカによる世界貿易機関(WTO)への提案(※1)を支持する立場を表明して、波紋を広げています(※2, ※3)。

報道では「特許放棄」という表現も散見されますが、議論されている「放棄(waiver)」は権利自体の放棄ではなく、権利の主張を(コロナ禍の収束まで一時的に)放棄する趣旨です。また、対象となる知的財産は「特許」に限定されず、インド他の提案では「TRIPS協定 第2部 第1節(著作権)、第4節(意匠)、第5節(特許)及び第7節(非開示情報)」と明示しています。

対象に特許が含まれるのは当然として、著作権が含まれることによりワクチン開発で利用されるソフトウェアの権利も、また意匠が含まれることによりワクチンの取扱いに関わる器具装置の権利も網羅されるのでしょう(ワクチン以外のコロナウイルス対策製品に目を向ければ、より幅広い技術に及びます)。注目すべきは、対象としてさらに非開示情報(undisclosed information)が含まれることで、日本で不正競争防止法で保護される営業秘密に加えて、薬事承認のために規制当局に提出された試験等のデータも含む概念とされています(第7節 第39条(3))。

バイオ医薬の場合、技術を保護する上で、製造条件等の技術ノウハウの重要性が従来よりも高いといわれています。今回の「放棄(waiver)」が仮に実行されて、特許に開示された技術情報に加えて、薬事承認関連データが、ワクチン開発企業の同意を要することなく入手可能になれば、現地企業によるワクチン開発も現実にありうるかもしれません。さらに、サイバー攻撃による技術ノウハウの窃取を利用したワクチン開発に対して、法的責任を追求できない可能性も懸念されます。

特許のような登録された権利は、その主張が一時的に止められたとしても「放棄(waiver)」が解除されれば(権利が存続している限り)元の状態に戻ることができます。他方、非開示であるがゆえに価値を持っていた技術ノウハウは、いったん開示されてしまえば、失われた価値を取り戻すことはできません。その意味で、非開示情報についての一時的な「放棄(waiver)」の要求は、本質的に矛盾をはらんでいるともいえます。

アメリカの支持表明を批判する立場からは、知的財産の保護は研究開発のインセンティブとして欠かせないとの論調も見られます。正論ではありますが、それだけでは、コロナ禍への緊急対応が求められる状況でも保護を継続すべき理由として、説得力不足の印象が残ります。また、ワクチン開発企業には、各社とも数百億円規模の公的資金の投入(※4)を受けてきた(結果としてワクチンが迅速に開発され、より長い期間、特許で保護されることになった)経緯の下で、私権である知的財産の保護に妥協できない理由の説明も求められそうです。

WTOでの議論には時間がかかると見られており、現実的には、議論が続く間に、途上国へのワクチンの輸出量が増えたり、自発的なワクチン生産技術の許諾や技術指導が進んだりすることで、「放棄(waiver)」の要求が鎮静化する可能性が高いのかもしれません。アメリカ政府もそこまで先読みした上で、政治的なポーズとして支持表明したのかもしれません。しかし、コロナ禍が収束した後も、将来、新たな「緊急事態」が発生すれば、また同様な議論が浮上することは確実でしょう。

筆者は知的財産を扱うことを仕事としていますので、一般論としては、知的財産を尊重してもらえる方が、そうでないより嬉しいです。とはいえ、知的財産はあくまで目的を達成するための「ツール」に過ぎないのであって、それ自体を目的とするものではありません。今回の議論でも(世界中の人々を一人でも多くコロナ禍から守るという)達成すべき目的に照らしたとき、知的財産は果たして役に立つ「ツール」なのかが問われています。広く深い問いであるように思います。

※1 IP/C/W/669 “WAIVER FROM CERTAIN PROVISIONS OF THE TRIPS AGREEMENT FOR THE PREVENTION, CONTAINMENT AND TREATMENT OF COVID-19” (2 October 2020) 

https://docs.wto.org/dol2fe/Pages/SS/directdoc.aspx?filename=q:/IP/C/W669.pdf&Open=True

※2 『米政権、新型コロナワクチンに関わる知財の保護放棄を支持(米国)』JETRO ビジネス短信(2021年05月7日)

https://www.jetro.go.jp/biznews/2021/05/28665874dcf80a85.html

※3 『ワクチン特許放棄、欧州反発「供給遅れの解決策にならず」』朝日新聞デジタル(2021年05月10日)

https://digital.asahi.com/articles/DA3S14897544.html

※4 『コロナワクチンの研究開発費 資金提供を多く受けた企業は?』Forbes JAPAN (2021年05月10日)

https://forbesjapan.com/articles/detail/41249

(URLの最終アクセスは全て2021年05月16日)

2021.12.30 追記)

2021年末の時点で、コロナ関連の知的財産権についての”waiver”の議論はWTOの場でも行き詰まっているようですが、オミクロン株の感染拡大が懸念される中、依然としてくすぶり続けているように思われます。

この問題に関して、日経ビジネス誌(2021年12月13日号)に掲載された、著名な経済学者であるスティグリッツ氏の寄稿では、ブラジルにおけるTRIPS協定 第73条適用の動きを紹介しています。

TRIPS協定の最終規定である第73条は「安全保障のための例外」として以下を定めています:

「この協定のいかなる規定も,次のいずれかのことを定めるものと解してはならない。

(a) ・・・ (b) 加盟国が自国の安全保障上の重大な利益の保護のために必要と認める次のいずれかの措置をとることを妨げること 

 (i) ・・  (ii) ・・ (iii) 戦時その他の国際関係の緊急時にとる措置 (以下略) 」

つまりTRIPS協定自体、コロナ禍は「国際関係の緊急時」であり「安全保障上の重大な利益」に関わるとして、加盟国が知的財産保護を一時停止することを正当化する余地を与えているということのようです。このような例外規定は軽々しく持ち出せるものではありませんが、コロナとの戦いは戦争に等しい、といわれると、それも直ちに否定し難いところです。

コロナ関連の知的財産についての議論は、ワクチン供給の国際的な不均衡が解消されるまで続くことでしょう。

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